第3回DG-Lab研究会告知

第3回DG-Lab研究会が下記の日程で開催されます。ぜひご参加ください。(今回はじめて参加を希望される方は、事務局(dg-lab(at)outlook.com)までご連絡ください。)

また、今回から会場費として、お一人さま300円を徴収させていただくことになりました。せっかく参加していただく方々にご負担を強いるのは大変心苦しいのですが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。


〈第3回 DG-Lab研究会〉
【日時】2015年5月23日(土)14時~19時
(※13時からミーティングを設けています。どなた様が参加していただいても構いません。お弁当でも食べながら、気軽にご参加ください。)

【場所】長岡京市中央生涯学習センター、6階・創作室2/京都府長岡京市神足2丁目3番1号 バンビオ1番館内(アクセス・ルートマップ http://www.bambio-ogbc.jp/access/

【読書会】ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』、第一章「欲望機械」(担当:山森裕毅)

【研究発表】福尾匠「眼=カメラから眼=スクリーンへー『シネマ』における二つの受動性ー」

【参加費】会場費としてお一人様300円

【定員】20名程度

◆読書会では、ついに『アンチ・オイディプス』に取りかかります。第一章「欲望機械」では、マルクスの議論(おそらくは『グルントリッセ』)を念頭に置きながら、そこから生産、消費、分配が発生してくる超越論的領野(ないし「準原因」)として器官なき身体が概念化されることになります。さらに、メラニー・クラインへの態度変更、発達段階論が背景に退くとともに、分裂症の問題が前景化されるという点において、『意味の論理学』との相違も考えてみる必要があるかもしれません。『アンチ・オイディプス』のこの部分は、そこに含まれる論点も多岐にわたり、たいへん晦渋ではありますが、資本論(貨幣論)、精神医学および精神分析、文学論(プルースト)など、さまざまな観点から興味深く読むことができるものだと思われます。今回のリーダーは山森裕毅さんにお願いしています。

 ◆研究発表では、福尾匠さんが「眼=カメラから眼=スクリーンへー『シネマ』における二つの受動性ー」と題した発表をなさいます。『運動イメージ』における知覚イメージ(あるいは気体状の知覚)と、『時間イメージ』におけるvisionという二つの受動性についての考察を試みたいとのことです。

なるほど『シネマ』においては、S-A-Sと形式化される運動イメージにおける行為者はもちろん、ヒッチコックにおける観客の位置、あるいは、イタリアのネオレアリズモが表現する運動感覚図式の破綻(精神自動機械)など、あらゆる場面で「受動性」が問題となっており、大変興味深い発表になると思われます。

(小林卓也)

第2回DG-Lab研究会開催報告(その2)

【研究発表】

研究発表では、小林卓也による「カント批判としての発生と持続ー
前期ドゥルーズによるベルクソン哲学の存在論的読解について」と題した発表を行いました。

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発表の主旨は、『差異と反復』におけるカント批判としての「可能的経験と実在的経験」の対比、「実在の発生」という論点が、ドゥルーズによるベルクソン哲学の独自の読解からどのように生じたのかを示すことでした。当日は、以下の分析手順をとりました。

  1. 1956-57年のhypokhâgne講義、1960年の『創造的進化』第三章についての講義を参照し、ドゥルーズがベルクソンとカントを対比させる論点が、ポスト・カント派から引き継いだ「発生」という論点にあることを確認。
  2. 『ベルクソンの哲学』(1966)では、発生という論点がベルクソンの持続概念に読み込まれることで、それが主観(知性)と客観(物質、延長)の発生の原理として概念化されていることを示す。
  3. こうしたベルクソンの持続概念の存在論的な読みが、『差異と反復』の強度概念の下地となっていることを示す。(つもりでしたが、当日は論じることができませんでした。)

皆様からは、カントの統覚についての僕の解釈に批判を頂いたり、どこまでがベルクソンでどこからがドゥルーズ固有の論点なのかが不明瞭だとの指摘を頂きました。このあたり、もっと詰めて考えたいと思います。

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次回は、福尾匠さんによる「眼=カメラから眼=スクリーンへー『シネマ』における二つの受動性ー」という大変興味深いタイトルのご発表を予定しています。

(小林卓也)

第2回DG-Lab研究会開催報告(その1)

去る3月28日(土)、第2回DG-Lab研究会が開催されました(@長岡京市)。はじめてお越しいただいた方を含め総勢15名ほどの参加者にお集りいただきました。

【読書会】於:創作室2(6F)14時〜

前回に引き続き、小倉拓也さんをリーダーとし『意味の論理学』第27セリー「口唇性」を輪読しました。小倉さんはメラニー・クラインの著作を詳細に検討し、それと比較検討することで、どの部分がドゥルーズ独自の読みなのか(あるいは読み違えなのか)を特定しようと試みられました。

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第27セリーでは、クラインの幼児の発達段階論をふまえ、抑うつ態勢において幼児がそれに同一化し、自我を形成することになる、善き対象(小倉さんは「良い対象」と訳されます)の発生が論じられます。ここで争点となるのは、この善き対象の完備さ(complet)と超越性(transcendance)が何に由来するのかということです。ドゥルーズはこれを、分裂態勢において部分対象と対立される「器官なき身体」に見出します。

分裂病態勢が、摂取され投射され中毒性で排泄物的で口唇的で肛門的な悪しき部分対象に対立させるものは、部分的な善き対象そのものではなく、むしろ部分なき有機体、器官なき身体、口も肛門もなく、一切の摂取や投射を放棄し、その代価として完備になった器官なき身体である。(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』、小泉義之訳、河出文庫、2007年、28頁。)

小倉さんの(非常にオリジナルな)主張は、ここでの「一切の摂取や投射を放棄する」という部分を、対象関係論における「出生外傷」、さらには『マゾッホとサド』で論じられた「否認による運動の放棄と不動の形態の引き出し」(小倉 2013: 183)の議論として読むべきだということだと思われます。おそらく、「生まれたこと」の否定(je ne suis pas né)が単に現実の相対的な否定に留まるのに対し、(大過去で表現される)「生まれなかったこと」(je n’avais pas été né)は、現在とはまったく独立した純粋な過去の出来事、純粋な否定(精神分析的な意味での「否認」)を表現する。これが器官なき身体の完備さであり、分裂態勢に後続する抑うつ態勢における善き対象の超越性を保証することになります。

※『意味の論理学』におけるクラインの議論の意義、否認との結びつきなどについては、小倉拓也さんの論文「出生外傷から器官なき身体へードゥルーズ『意味の論理学』におけるメラニー・クライン受容の意義と限界ー」(『フランス哲学・思想研究』第18号所収、日仏哲学会、2013年)をご確認ください。

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残念ながら時間の関係上、中途半端に終わってしまいましたが、次回は山森さんをリーダーに『アンチ・オイディプス』第一章を読みたいと思います。

(小林卓也)