2016年度第1回DG-Lab研究会告知

先日の研究会で、当初予定しておりました初年度の日程はすべて無事に終了いたしました。これも、皆様にご協力いただいたおかげです。ありがとうございました。

さて、2016年度DG-Lab第1回研究会は、以下の日程で開催されます。皆様、ぜひご参加いただけますようよろしくお願いいたします。

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次年度テーマとして取り上げるのは「ライプニッツ」です。ドゥルーズ哲学においてライプニッツの占める位置、役割について、さまざまな観点から検討したいと考えています。たとえば、『千のプラトー』以降のドゥルーズ哲学の自然哲学的展開を考えれば、その最大の帰結は『襞』ですし、また、つねにライプニッツと対比的に論じられるスピノザとの関係はどうなのか(すなわち、ドゥルーズはライプニッツ主義なのかスピノザ主義なのか)、さらには、『差異と反復』におけるやや否定的なライプニッツ評価に対し、それ以降のドゥルーズによる評価の変遷などが問題点として挙げられます。

読書会では『襞』だけではなく、『意味の論理学』、『差異と反復』、パリ8大学での講義などから、ライプニッツに関連する箇所(副-言、可能世界論、人称性、バロック、無限小、等々)を選定し、読んでいきたいと思います。

〈第1回DG-Lab研究会〉
【日時】 2016年1月23日(土)15時~20時
【場所】 長岡京市中央生涯学習センター、4階・学習室3
【読書会】 ドゥルーズのライプニッツ講義:Web Deleuze(http://www.webdeleuze.com/php/sommaire.html)内のライプニッツ欄にある英訳のある5回分。今回は①と②を扱います。(担当:得能想平)

※テキストにつきましては下記のpdfファイルを参照ください。

〈読書会資料〉

ライプニッツ講義①(15_4_1980)ライプニッツ講義②(22_4_1980)ライプニッツ講義③(29_4_1980)ライプニッツ講義④(6_5_1980)ライプニッツ講義⑤(20_5_1980)

(英訳)ライプニッツ講義①(15_4_1980)(英訳)ライプニッツ講義②(22_4_1980)(英訳)ライプニッツ講義③(29_4_1980)(英訳)ライプニッツ講義④(6_5_1980)(英訳)ライプニッツ講義⑤(20_5_1980)

 
【研究発表】 平田公威「『意味の論理学』における出来事の論理」(仮)

※初回から申し訳ありませんが、部屋の空き具合の都合上、15時からの開催となっております。そのため、今回ミーティングはなく、読書会と研究発表のみとなっております。ご了承ください。

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では、次年度もDG-Labを何卒よろしくお願いいたします。皆様、よいお年をお迎えください。

(小林卓也)

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2015年 12月20日 (日)ドゥルーズ科研・脱構築研究会共同ワークショップ「ドゥルーズとデリダ」

2015年 12月20日 (日) 13:00- 18:00 @グランフロント大阪

ドゥルーズ科研・脱構築研究会共同ワークショップ「ドゥルーズとデリダ」が開催されます。DG-Labに参加いただいている小川歩人さんが若手研究発表で登壇されます。

ポスターはこちら

→ ドゥルーズ科研・脱構築研究会共同ワークショップ「ドゥルーズとデリダ」

第6回DG-Lab研究会開催報告(その2)

【研究発表】 内藤慧「理念的なもののリアリティ ―初期ドゥルーズ哲学素描―(仮)」

研究発表パートでは、内藤慧さんによる「理念的なもののリアリティ ―初期ドゥルーズ哲学素描―(仮)」が行われました。ドゥルーズ哲学において、「理念的なもののリアリティ」がいったい何を意味するのかについて、ドゥルーズの初期著作を参照しつつ、理念と実在(現実)の関係という観点からこれを明らかにすることを目的とされています。ドゥルーズはきわめて初期の段階から晩年に至るまで、理念的なものの存在論的な地位、その特異な性質について、さまざまな哲学的議論を用いつつ論じています。「理念」ひとつとっても、プラトン(イデア)、カント(統制的理念)のみならず、ヘーゲル、マルクス、プルーストなど、さまざまな哲学史的文脈、文学的議論が含まれており、最重要かつ重大な論点のひとつであると思われます。

 

内藤さんの整理によると、ドゥルーズにとって理念は、いくつかの相関項(概念)との対比によって考えられています。まず、とりわけ『意味の論理学』に見られるような、ストア派の議論を用いた、理念とその現実化(実在化)という対比が挙げられます。この対比的に捉えられる理念的なものと現実的なものは、出来事とその実現された「事故(偶発事)」、存立すること(insister)と現実存在すること(exister)、非物体的なものと物体的なものとの対比に見られるように、互いに存在論的に区別されています。さらに、内藤さんは、この区別が『差異と反復』における時間の第一の総合と第二の総合とのあいだにも認められると主張されます。(プラトン主義的解釈から明らかなように)理念が現実に対する根拠であるのと同様、『差異と反復』の時間論においても、理念的存在としての純粋過去は、諸現在に対する根拠として位置づけられているからです。

しかし、ドゥルーズにとって理念は、現実と対比をなすだけではありません。むしろ、理念それ自体が「リアル」である、実在性を持つとされる箇所が見られます。それは『意味の論理学』において、既知のゲーム(シニフィエ)に対して、理念的なゲーム(シニフィアン)が思考そのものの実在性であると言われていることから分かるように(さらに、クロノスとアイオーンという時間論的な区別もまた、この区別に対応しています)、ここでは、理念と実在との関係は、対立というよりもむしろ、協調的な関係として理解されています。

 

ここから内藤さんは、では、「理念的なものが実在性をもつ」とはどういうことなのか、これを明らかにすべく、『意味の論理学』における意味論、および、『差異と反復』における問題と解の関係に着目されます。意味は、肯定命題と否定命題をともに根拠付ける〔正確に言えば、真と偽に対して中立にある命題そのものの意味を前提としてはじめて、その真理値を確定することができる〕ものであり、また、問題は、個別の解を発生させる根拠としての客観性を持つ。この意味で、意味や問題は、ただ、それが生得的に前提される、あるいは、想起されるべき対象としてその理念性が担保されているだけでは不十分であり、むしろ、そこから、「現実的なもろもろの解が発生、産出される場」として理解されるべきであり、理念としての意味や問題は、そうした(思考の)生殖性という観点から考えられるべきではないかと内藤さんは主張されます。

そして、内藤さんは、こうした理念からの現実の発生の問題を、ドゥルーズの超越論的経験論における諸能力の超越的行使の議論から考察されます。すなわち、カント的な諸能力の共同〔協働〕的な行使に対して、その超越的行使は、感覚されるしか可能でないものとしての出会いの対象を現前させるとともに、これによって、感性それ自体を〔感覚することしか可能でない感性という〕内在的な形式として発生させる。超越論的経験論において、出会いの対象(内藤さんはこれをシーニュとも呼びます)が、感性や思考を内在的に発生させる(生殖性)ものであるように、それを介して命題や解が発生する場である意味や問題といった未決定状態としての〔あるいは中立、中性、不毛である〕理念的なものは、まさに、諸能力の超越的行使の対象であるということです。ならば、ドゥルーズにとって、こうした能力の発生こそが、可能的経験から区別されるべき「リアル」な経験と呼ばれるものではないか。つまり、「意味や問題を対象とする諸能力の超越的行使によって能力が発生する」ことで、必然的に変化を含んだ〔発生した〕経験こそが、ドゥルーズにとっての実在的経験なのではないかと内藤さんは論じられます。理念を介して発生する次元としての「経験のリアリティ」(生殖性)、すなわち、感性や思考の発生を担うということこそが、ドゥルーズにおいて「理念的なものがリアリティをもつ」ということの意味ではないかと締めくくられました。

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発生論に関しては、今後、マイモン、フィヒテといったポスト・カント派の議論も視野に入れるとともに、芸術論を含めた感性論へと展開される企図も述べられていました。今回のご発表は、内藤さんの卒業論文の一部となるそうです。

(小林卓也)

第6回DG-Lab研究会開催報告(その1)

去る11月21日(土)(@長岡京市生涯学習センター)、第6回DG-Lab研究会が開催されました。

【読書会】於:6階・会議室3

福尾匠さんをリーダーに、ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン:感覚の論理』、「6. 絵画と感覚」、「7. ヒステリー」、「8. 力を画くこと」についての読書会を行いました。

福尾さんによる、『感覚の論理』全体の構成について説明がなされた後、各章各節ごとに内容を確認する形で進められました。

手が眼に従属した様態(optique-tactile)としての具象・抽象絵画から、ポロックに見られるような手が眼に対して完全に優位である様態(manuel)のあいだで、ベーコン絵画は、「空間化以前の力としての運動」を表現する形象(Figure)を描く。形象は、神経へと直接作用することで、感覚を、有機的(身体的)な結びつきから解放する。これにより、感覚は、複数の次元、水準、領野を移り行くものとして可視化され、現前する。このように、身体を合成する物質性、経験不可能な力能(これ自体が何なのかの検討は必要である)、経験不可能な時間を見えるようにする点に、ベーコン絵画の特異性があるとドゥルーズは考えています。

 

会場からは、ドゥルーズの絵画論においては、鑑賞する側の位置はどうなっているのかという問いかけがありました。創作する側の論理が中心を占める(ように見える)ドゥルーズの議論を踏まえた上で、では、われわれが絵画の前に立ち、これを見ているとき、はたして何が生じているのか、何を経験していることになるのかということをめぐり、さまざま議論が交わされました。

 

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今年度の統一テーマである「器官なき身体」についても、アルトーの議論、「卵」という形容など、連続する部分がありつつも、器官なき身体(Corps sans Organes)における「器官なき」(sans organes)の部分が強調されていた『意味の論理学』に対し、『感覚の論理』では、器官なき「身体」(corps)がとり得るさまざまな様態(肉、神経、不確定の器官、ヒステリーの身体、拘縮、麻痺)が積極的に描かれていたように思われます。

(小林卓也)