第6回DG-Lab研究会告知

下記の日程にて、第6回DG-Lab研究会を開催する運びとなりました。今年度最後の研究会となります。どなた様も、ぜひご参加ください。

(※今回はじめて参加を希望される方は、事務局(dg-lab(at)outlook.com)までご連絡いただきますようよろしくお願いいたします。)


〈第6回DG-Lab研究会〉
【日時】2015年11月21日(土)14時~19時
(※13時からミーティングを設けています。どなた様も、ぜひご参加ください。)

【場所】長岡京市中央生涯学習センター、6階・会議室3/京都府長岡京市神足2丁目3番1号 バンビオ1番館内(アクセス・ルートマップ http://www.bambio-ogbc.jp/access/

【読書会】ジル・ドゥルーズ『フランシス・ベーコン:感覚の論理』、「6. 絵画と感覚」、「7. ヒステリー」、「8. 力を画くこと」(担当:福尾匠)

【研究発表】内藤慧「理念的なもののリアリティ ―初期ドゥルーズ哲学素描―(仮)」

  • (参考文献)『差異と反復』(第1章、第3章、結論)、『意味の論理学』(第26セリーまで)。
  • 『差異と反復』と『意味の論理学』のあいだで、理念的(idéal)と呼ばれるものと実在的(現実的 réel)と呼ばれるものがそれぞれどのような関係になっているのかを整理し、そこからひとつの「初期ドゥルーズ哲学」像を素描することが試みられます。

【参加費】会場費として、お一人様300円

【定員】20名程度

Rights and Reproduction: © 2015 Artists Rights Society (ARS), New York

Rights and Reproduction: © 2015 Artists Rights Society (ARS), New York

(小林卓也)

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『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』(河出書房新社)が刊行されました。

河出書房新社より『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』が刊行されました。本研究会参加メンバーも協力しています。ぜひお求めください。

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【翻訳】

(訳=小倉拓也福尾匠)アンヌ・ソヴァニャルグ「リゾームと線」, pp.42-63.

(訳=小林卓也)ジャン=クリストフ・ゴダール「1960年という瞬時におけるドゥルーズ――思考のあらたなイマージュ?」, pp.80-93.

(訳=西山雄二+小川歩人)パトリック・ロレッド「動物は人間のように愚かであることができるか――デリダとドゥルーズをめぐる「超越論的愚かさ」について」, pp.172-181.

【主要著作ガイド】

山森裕毅)『カフカ』, 『ディアローグ』

小倉拓也)『フランシス・ベーコン』, 『哲学とは何か』

小林卓也)『カントの批判哲学』, 『無人島とその他のテクスト』, 『狂人の二つの体制』

第5回DG-Lab研究会開催報告(その2)

【研究発表】 

研究発表パートでは、山森裕毅さんによる「力能記号論についての準備的考察」と題されたレクチャーが行われました。山森さんは、まず、ガタリ記号論が展開される時期を以下の四つに分類されます。

  1. シニフィアン期:「記号から記号へ」(1966)、『精神分析と横断性』(1972))
  2. 「力能記号」(signe de puissance)期:『アンチ・オイディプス草稿』、『アンチ・オイディプス』(1972)
  3. 「非シニフィアン」期:(『分子革命』(1977))
  4. 記号論後景期(「ガタリのセミナー記録」:1980-1988)、『分裂分析地図作成法』(1989)

この区分に沿って、自身のこれまでの研究の道のりと成果を確認されました。これらの研究を通して、一貫したガタリ記号論を抽出するとともに、これをさまざまな臨床的現場へ実現する可能性を探ることを目的とされています。

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とりわけ、今回のレクチャーで重点的に話されたのは、『アンチ・オイディプス草稿』と『アンチ・オイディプス』に見出される「力能記号」と呼ばれるものについてです。力能記号とは何か、力能記号は欲望とどのような関係にあるのか、なぜ「力能記号」と呼ばれるのか、これらの問いをさまざまな引用の参照、分析を通して考察されました。

ガタリの言う力能記号とは、シニフィアン連鎖とも、意味論的な語と内容の一対一対応とも異なり、その内実を正確に捉えることはきわめて困難ですが、リオタール『言説・形象』における「フィギュール」概念、あるいは、ラカンの”trait unaire”との関連を明らかにすることがひとつの鍵となるようです。個人的に印象的だったのは、『アンチ・オイディプス草稿』からの以下の引用です。

「力能記号による共立平面の多様体の理論のみが、コードの剰余価値という現象を考察することが出来ると私には思われる。つまり、記号のレベルにおいて作動するものは現実においても実効的であり、また現実の出来事の生産であるということ。」(337頁)

ここではもはや、受信者と発信者、意味内容(の同一性)を前提とするコードモデルも、あるいは、意味内容の現実性を幻想としてのみ認め、そこに解釈を介入させる欠如モデルも採用されていません。むしろ、こうした理論に対抗し、記号が直接的に現実を生産するものであるということをガタリの力能記号は概念化しようとしているように思われます(この論点は、『アンチ・オイディプス』における「欲望する生産」に直結するものです)。

もちろん、ここで言われている現実とはどの水準で考えられるべきものなのかということが直ちに問題となります。それが物質的現実(DNA、RNA等)なのか、あるいは主体形成にかかわる要因(情動、行為)なのか、問題設定の違いによって、議論構成やその方向性は大きく変化するはずです。しかし、ガタリ記号論の中心に力能記号を位置づけ、(力能)記号が、社会的主体化とは異なる(どのような)主観性を(どのように)生産しうるのかを明らかにすることは、臨床=治療という場面においても重要な意味を持つのみならず、これによってガタリの諸概念や理論的図式は、さまざまな場面へと応用可能となるように思われます。


レクチャーのあと、山森さんとの個人的なやりとりのなかで話題にのぼったのが、マウリツィオ・ラッツアラートのガタリ記号論 SIGNS AND MACHINES:
CAPITALISM AND THE PRODUCTION OF SUBJECTIVITY, Semiotext(e), 2014.でした。ラッツアラートは、政治-経済という枠組みを設定した上で、そこにおける主体の生産プロセスを問題とします。ラッツアラートの趣旨は、政治(ランシエール)、生産(パオロ・ヴィルノ)、主体の構築(ジジェク、バトラー)という領域において言語に中心的な役割を付与する理論に対抗するものとしてガタリの概念(機械上従属、主体的変容、美学的パラディグムなど)を位置づけることで、資本主義による捕捉から独立し、自立した主体化の過程を提示することにあるようです。

9781584351306

  • Signs and Machines: Capitalism and the Production of Subjectivity (Semiotext(e) / Foreign Agents)
  • Publisher: Semiotext(e) (May 2, 2014)
  • ISBN: 978-1584351306

第5回DG-Lab研究会開催報告(その1)

先日10月3日(土)、長岡京にて第5回DG-Lab研究会が開催されました。今回も17名の方々にお集まりいただき、活発な議論が行われました。

【読書会】於:和室(6F)14時~

前回と今回の二回にわたり、小林をリーダーとして、ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』、「6 1947年12月28日―いかにして器官なき身体を獲得するか」の輪読を行いました。

『千のプラトー』は、精神分析や言語学による「地層化」(中心化、統一化、全体化、統合化、階層化、合目的化=超コード化)と、病者、子供、黒人英語などを手がかりに論じられる「脱地層化」(素材matière、存立平面、器官なき身体、強度、生成変化)の二つを対立軸とし、地質学、生物学、言語論、音楽論など、さまざまな領域の知見を横断、参照しながら、次の三点が論じられます。

  1. 地層化された領域のなかに脱地層化の運動を見ること(精神分析批判、言語学批判、リトルネロ)
  2. 脱地層化された領域そのものの組成、あり方を問うこと(器官なき身体、存立平面、強度、平滑空間)
  3. 脱地層化された領域からどのように別様の地層化が生じるのかを問うこと(生成変化(馬—人間の生成変化)、(条件づけではない)現実化、発生)

第4回研究会では、冒頭、こうした『千のプラトー』の構図・企図が確認された後、以下をはじめとする、さまざまな論点が議論されました。

  • タイトルに含まれる代名動詞”se faire”をどう読むのか。「いかにして器官なき身体を自ら作るのか?」と読み、病者、倒錯者、障害者におけるある種の能動性を考えるべき。
  • イェルムスレウの言理学における、表現と内容おのおのにおける実質と形式の相互関係。蘭と雀蜂。
  • ドゥルーズのアメリカへの憧憬。『千のプラトー』に垣間見られるコミュニズム的発想、共同体(幻想?)論、等々…

今回(第5回研究会において)主に議論されたのは、CsO(器官なき身体)とスピノザの実体論についてでした。CsOについての最良の著書は『エチカ』ではないかと述べた上で、ドゥルーズとガタリは、スピノザの実体、属性、様態からなる三層構造によって器官なき身体の内的組成を説明します。

属性は、CsOのタイプあるいは種であり、実体(substances)は生産的母体としての力能あるいは強度ゼロである。様態(modes)は、生じるもののすべて、すなわち、波と振動、遊走(migration)、閾や勾配、ある母体からはじめて、しかじかの実体のタイプのもとに生み出される強度である。

諸々の属性すべての連続体、あるいは、同一実体(substance)のもとにある強度の諸々の種〔=属性〕の連続体と、同一のタイプあるいは同一の属性のもとにある特定の種の諸々の強度の連続体。

諸々の実体(substances)すべての強度における連続体は、諸々の強度すべての実体(substance)における連続体でもあるのだ。(一部改訳)

特に三つ目の引用にあるように、実体が、複数形と単数形で区別されて現れています。ここで想定されていると思われるゲルーによる実体-属性論を手がかりに、この箇所の解釈を試みました。

ある属性が他の属性から実在的(形相的)に区別される限り、各々の属性は、実在的(形相的)に区別されるひとつの実体を持つ(属性=実体)。唯一、単一で、不可分である神的実体とは、これら「無数の属性から成り立つ実体」である(本来許されないことであるが、あえて唯名論的に言うならば、神的実体とは無限の属性全体を指す名として考える)。したがって、属性間の実在的区別が担保されている限り、無数の属性は、それによって構成される神的実体の内的差異を示し、(神的実体の側から見るならば)各々の属性は、単一実体内部における極限(limite)として理解されることになる。こうした議論を念頭に置くことで、あらゆる属性(=実体)のすべてが、その変様である様態において連続体を構成するとともに、あらゆる様態(=個体)のすべてが、唯一の神的実体において連続体を構成する。こうした観点からすると、「CsOの中断なき連続体」(Continuum ininterrompu du CsO.)や、「CsOは内在性であり、内的極限である」(Le CsO, immanence, limite immanente.)といった表現を統一的に理解することができるのではないか。

読書会の小林メモより

とはいえ、

  • マゾヒストの身体、麻薬中毒者の身体、分裂症の身体は、はたして、スピノザにおける思惟属性や延長属性と同列に語りうるのか。
  • 属性と実体を部分と全体の構成的関係として理解せず、属性の連続体として実体を理解するとは結局どういうことなのか。
  • 無限の属性(個々のCsO)によって構成される単一実体(CsO)とは(死でなければ)何なのか。
  • あるいは、実体相互間における交換と循環を欲望するとは(死の欲動でなければ)何なのか。

などなど、さまざま疑問、意見が参加者の皆さんから発せられました。

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テキスト解釈のレベルにおいても、まだまだ多くの問題点・疑問点が含まれている部分です。しかし、すくなくとも言えることは、『意味の論理学』から『アンチ・オイディプス』経て、『千のプラトー』に至り、器官なき身体の議論が、病者や倒錯者の身体性(ないし物質性)へと焦点化されていったことです。これは、ドゥルーズのベーコン論である『感覚の論理』で論じられる、ベーコンの絵画表現、とりわけ、異質な力のあいだの対立・緊張・均衡(のリズム的統合)状態にあるヒステリーの身体的形象といった論点へと収斂されるように思われます。次回の読書会では、この『感覚の論理』を題材に、最終的に到達された器官なき身体という概念の内実を検討する予定です。

(小林卓也)