先日10月3日(土)、長岡京にて第5回DG-Lab研究会が開催されました。今回も17名の方々にお集まりいただき、活発な議論が行われました。
【読書会】於:和室(6F)14時~
前回と今回の二回にわたり、小林をリーダーとして、ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』、「6 1947年12月28日―いかにして器官なき身体を獲得するか」の輪読を行いました。
『千のプラトー』は、精神分析や言語学による「地層化」(中心化、統一化、全体化、統合化、階層化、合目的化=超コード化)と、病者、子供、黒人英語などを手がかりに論じられる「脱地層化」(素材matière、存立平面、器官なき身体、強度、生成変化)の二つを対立軸とし、地質学、生物学、言語論、音楽論など、さまざまな領域の知見を横断、参照しながら、次の三点が論じられます。
- 地層化された領域のなかに脱地層化の運動を見ること(精神分析批判、言語学批判、リトルネロ)
- 脱地層化された領域そのものの組成、あり方を問うこと(器官なき身体、存立平面、強度、平滑空間)
- 脱地層化された領域からどのように別様の地層化が生じるのかを問うこと(生成変化(馬—人間の生成変化)、(条件づけではない)現実化、発生)
第4回研究会では、冒頭、こうした『千のプラトー』の構図・企図が確認された後、以下をはじめとする、さまざまな論点が議論されました。
- タイトルに含まれる代名動詞”se faire”をどう読むのか。「いかにして器官なき身体を自ら作るのか?」と読み、病者、倒錯者、障害者におけるある種の能動性を考えるべき。
- イェルムスレウの言理学における、表現と内容おのおのにおける実質と形式の相互関係。蘭と雀蜂。
- ドゥルーズのアメリカへの憧憬。『千のプラトー』に垣間見られるコミュニズム的発想、共同体(幻想?)論、等々…
今回(第5回研究会において)主に議論されたのは、CsO(器官なき身体)とスピノザの実体論についてでした。CsOについての最良の著書は『エチカ』ではないかと述べた上で、ドゥルーズとガタリは、スピノザの実体、属性、様態からなる三層構造によって器官なき身体の内的組成を説明します。
属性は、CsOのタイプあるいは種であり、実体(substances)は生産的母体としての力能あるいは強度ゼロである。様態(modes)は、生じるもののすべて、すなわち、波と振動、遊走(migration)、閾や勾配、ある母体からはじめて、しかじかの実体のタイプのもとに生み出される強度である。
諸々の属性すべての連続体、あるいは、同一実体(substance)のもとにある強度の諸々の種〔=属性〕の連続体と、同一のタイプあるいは同一の属性のもとにある特定の種の諸々の強度の連続体。
諸々の実体(substances)すべての強度における連続体は、諸々の強度すべての実体(substance)における連続体でもあるのだ。(一部改訳)
特に三つ目の引用にあるように、実体が、複数形と単数形で区別されて現れています。ここで想定されていると思われるゲルーによる実体-属性論を手がかりに、この箇所の解釈を試みました。
ある属性が他の属性から実在的(形相的)に区別される限り、各々の属性は、実在的(形相的)に区別されるひとつの実体を持つ(属性=実体)。唯一、単一で、不可分である神的実体とは、これら「無数の属性から成り立つ実体」である(本来許されないことであるが、あえて唯名論的に言うならば、神的実体とは無限の属性全体を指す名として考える)。したがって、属性間の実在的区別が担保されている限り、無数の属性は、それによって構成される神的実体の内的差異を示し、(神的実体の側から見るならば)各々の属性は、単一実体内部における極限(limite)として理解されることになる。こうした議論を念頭に置くことで、あらゆる属性(=実体)のすべてが、その変様である様態において連続体を構成するとともに、あらゆる様態(=個体)のすべてが、唯一の神的実体において連続体を構成する。こうした観点からすると、「CsOの中断なき連続体」(Continuum ininterrompu du CsO.)や、「CsOは内在性であり、内的極限である」(Le CsO, immanence, limite immanente.)といった表現を統一的に理解することができるのではないか。
とはいえ、
- マゾヒストの身体、麻薬中毒者の身体、分裂症の身体は、はたして、スピノザにおける思惟属性や延長属性と同列に語りうるのか。
- 属性と実体を部分と全体の構成的関係として理解せず、属性の連続体として実体を理解するとは結局どういうことなのか。
- 無限の属性(個々のCsO)によって構成される単一実体(CsO)とは(死でなければ)何なのか。
- あるいは、実体相互間における交換と循環を欲望するとは(死の欲動でなければ)何なのか。
などなど、さまざま疑問、意見が参加者の皆さんから発せられました。
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テキスト解釈のレベルにおいても、まだまだ多くの問題点・疑問点が含まれている部分です。しかし、すくなくとも言えることは、『意味の論理学』から『アンチ・オイディプス』経て、『千のプラトー』に至り、器官なき身体の議論が、病者や倒錯者の身体性(ないし物質性)へと焦点化されていったことです。これは、ドゥルーズのベーコン論である『感覚の論理』で論じられる、ベーコンの絵画表現、とりわけ、異質な力のあいだの対立・緊張・均衡(のリズム的統合)状態にあるヒステリーの身体的形象といった論点へと収斂されるように思われます。次回の読書会では、この『感覚の論理』を題材に、最終的に到達された器官なき身体という概念の内実を検討する予定です。
(小林卓也)