第1回DG-Lab研究会開催報告(その2)

【研究発表】
研究発表では、山森裕毅さんによる「制度分析のプロトコル――幻想・集団・横断性」と題された発表が行われました。

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従来、ガタリの「横断性(transversalité)」という概念は、医者と患者のように硬直した垂直性と、院内スタッフや仲間同士の緩やかな水平性に対して、それらに収まらない第三の関係性として提示され、理解されてきました。本発表における山森さんの意図は、1955年から71年までのガタリの初期思想における集団論と幻想論に着目することによって、従来とは異なる観点から、横断性概念の真価を再構築するものであったと思われます。

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山森さんによれば、ガタリは集団を、その主体性が他の集団に譲渡されてしまっている「隷属–集団」と、集団の存在理由や根拠を集団自らが引き受ける「主体–集団」に区別します。そして、制度精神療法/制度分析の実践では、隷属-集団をできる限り主体-集団へと近づけることが求められます。さらにこれを実行するためには、集団を隷属–集団へと移行させる「個人幻想」に陥ることを避けるとともに、「集団幻想」が、ファシズムやある種の狂信的な宗教団体のように、想像物に妄執し、集団の分裂や破局へと至ることも避けなければならない。このように、個人幻想に陥ることも、集団の破局に至るのでもない地点に介入することにこそ、ガタリの治療実践の企図があると山森さんは主張します。

そして、個人幻想と(ある種の問題を含む)集団幻想が、集団の固定化と死滅に至らしめる二つの極端であるとすれば、それらのあいだにおいて自由度を高めることが求められ(発表では、馬の視野を制限・調節する遮眼帯が事例に挙げられました)、ここに横断性概念が位置づけられます。この自由度(遮眼帯で言えば、視野の開閉の度合い)をガタリは「横断性の係数」と呼びます。そして、横断性の係数の制限を緩め、その係数を上げることが「超自我の受容与件の再構成」であり、ここに横断性概念の核心があると山森さんは主張します。最後に、この横断性概念の再構築を踏まえた上で、山森さんは『精神分析と横断性』から読み取れる限りでの制度精神療法/制度分析が実践すべき医療行為のプロトコルを提起されました。

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本発表の元となった論文は近々雑誌媒体にて公表されるそうですので、詳細はそちらでご確認ください。

(小林卓也)

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研究会終了後、懇親会と新年会をかねて

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第1回DG-Lab研究会開催記録(その1)

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先日、DG-Lab第1回研究会が長岡京市中央生涯学習センターにて開催されました。当日は、遠方からお越し頂いた方を含め、総勢15名の方々に参加して頂きました。皆さん、仔細にドゥルーズのテキストを読み込んでおられる方ばかりで、非常に有益かつ楽しい時間を過ごすことができました。

【読書会】於:第2会議室(6F)13時〜

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小倉拓也さんをリーダーとし、『意味の論理学』第13セリー「分裂症者と少女」を講読していただきました(当初予定していた第27セリー「口唇性」は時間の都合上次回に延期されました)。

小倉さんが主張されるように、『意味の論理学』が言語活動の可能性の条件を探求する書物であるとすると、ストア派とキャロルに沿って論じられる「静的発生」(第二次組織化、第三次配列)と、アルトーとメラニークラインが援用される「動的発生」(第一次秩序)がこの書物の格子を構成しています。

今回取り上げた第13セリーは、静的発生が前提とする「意味」の次元、すなわち、物体(音)と命題(語)を区別する境界線(ドゥルーズはこれを表面とも呼びます)が破綻し、その下に物体的深層が露呈する場面が、キャロルとアルトーの対比、相違を検討しながら論じられる部分です。また、小倉さんの指摘どおり、ここにドゥルーズのキャリア上はじめて「器官なき身体」概念が登場します。

小倉さんは、テキストを丁寧に読解しつつ、倒錯(キャロル)と分裂症(アルトー)の対比だけではなく、分裂症者の身体的妄想(寸断された身体や分離した身体)と器官なき身体は明確に区別すべきであるということをとりわけ強調されていました。ドゥルーズの企図は、区別すべきものを適切に区別し、区別されたもの同士の関係を明確にすることであり、小倉さんの読解はここに焦点が当てられていたように思われます。そして、キャロルとアリスとアルトーの区別だけでなく、例えば、アルトーと同じ分裂症者に括られるウォルフソンの言語行為がどこに位置づけられるのかということが問題となりました。

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会場の方々からも、『批評と臨床』で言及される『バートルビー』や『白鯨』における言語活動について、さらには、「第一次秩序」という時の「秩序(ordre)」に何か含意はあるのかなど、さまざまな観点から興味深い議論が展開されました。

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次回は第27セリー「口唇性」を読みたいと思います。この部分は小倉さんが丹念に追われているメラニー・クラインの幼児の精神分析が積極的に援用される部分であり、(さまざま問題はあれど)ある種、ドゥルーズが、クラインによる幼児の発達段階に準拠して言語活動の獲得(発生)過程を論じる箇所です。そして、今年度のテーマである器官なき身体は、この言語活動の獲得(発生)過程において重要な役割を果たすことになります。

(小林卓也)