【研究発表】
研究発表では、福尾匠さんによる「眼=カメラ、眼=スクリーン―視覚性の類型学として読む『シネマ』―」と題された発表が行われました。福尾さんの企図は、ドゥルーズの『シネマ』二冊本(『シネマ1 運動イマージュ』(1983)、『シネマ2 時間イマージュ』(1985))におけるイマージュがもつ視覚性の違いに着目し、それを類型化することで、運動的体制(『シネマ1』)と時間的体制(『シネマ2』)の差異、前者から後者への移行の構造的契機を考察することにあります。
福尾さんはまず、「運動イマージュ」と「〈運動=イマージュ〉」を区別することを提案されます。映画的イマージュは、それ自体与えられない〈運動=イマージュ〉としての全体を、種別化された諸々のイマージュ(知覚イマージュ、情動イマージュ、行動イマージュなど)によって表現する。とりわけ、ドゥルーズは、知覚イマージュに着目し、その典拠先であるベルクソンの『物質と記憶』をラディカルに読み替えることで、即自的なイマージュ=物質(物)のなかにすら知覚を見ようとします。その意図は、映画的イマージュに固有の即自的なイマージュ、すなわち、〈運動=イマージュ〉へと接近することにあると福尾さんは主張されます。
映画はその諸々の切断面(カット)を操作することによって、中心のある知覚(ベルクソン)ではなく、中心なき事物の状態へと遡行する。その先端に位置づけられるのが「気体状の知覚percecption gazuese」であり、さらにそれが、〈運動=イマージュ〉と一致する可能性があるとドゥルーズは主張する。そこに、福尾さんは、全体としての〈運動=イマージュ〉は与えられず表現されることしかできないとする『シネマ』のテーゼとの矛盾があることを指摘しつつも、それが『時間イマージュ』の移行を要請する契機となっていると解釈されます。
通常、映画イマージュの運動的体制から時間的体制への移行は、第二次世界大戦およびイタリア・ネオレアリズモの台頭という歴史的事実によって説明される。しかし、福尾さんによれば、ドゥルーズが即時的なイマージュのなかに知覚を置いたとき、すでに、時間イマージュが、感覚-運動系を惹起すると同時に、映画を世界の運動へと参入させ世界を映画化する「眼=カメラ」(ジガ・ヴェルトフ)の外部として要請されていた。これを契機に、われわれの眼は、もはや、世界の運動に応答し、世界を再構成する「眼=カメラ」であることをやめ、光を受け止めることしかできない「眼=スクリーン」として晒されることになる。
さらに福尾さんは、「眼=スクリーン」という見ることしかできないという視覚性のなかに、イマージュそれ自体を「読む」という新たな能動性、すなわち、可読性(lisibilité)が獲得されることに着目します。イマージュの可読性とは、「眼=カメラ」を介してさまざまな物や人、建物や出来事を有機的に結びつけ、世界を再構成するのではなく、世界の離散性や多元性の非有機的な「離接」の次元としてイマージュを読みうる可能性の発生です。
最後に、福尾さんは、ゴダール初の3D作品である『さらば、愛の言葉よ』(邦題)を(平倉圭氏の分析を参照しつつ)検討し、そこで用いられている対応不可能な視差の拡大、左右の眼に映る映像の齟齬、2Dと3Dの不規則な交代、解像度の異なるカメラの使用といった手法が、ドゥルーズの主張する純粋に視覚的なイマージュを映像化していること、そして、それが、「正しさ」や真なるものの形態に従属することのないイマージュに固有の可読性を開くものであることを指摘されていました。
(小林卓也)