第2回DG-Lab研究会開催報告(その1)

去る3月28日(土)、第2回DG-Lab研究会が開催されました(@長岡京市)。はじめてお越しいただいた方を含め総勢15名ほどの参加者にお集りいただきました。

【読書会】於:創作室2(6F)14時〜

前回に引き続き、小倉拓也さんをリーダーとし『意味の論理学』第27セリー「口唇性」を輪読しました。小倉さんはメラニー・クラインの著作を詳細に検討し、それと比較検討することで、どの部分がドゥルーズ独自の読みなのか(あるいは読み違えなのか)を特定しようと試みられました。

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第27セリーでは、クラインの幼児の発達段階論をふまえ、抑うつ態勢において幼児がそれに同一化し、自我を形成することになる、善き対象(小倉さんは「良い対象」と訳されます)の発生が論じられます。ここで争点となるのは、この善き対象の完備さ(complet)と超越性(transcendance)が何に由来するのかということです。ドゥルーズはこれを、分裂態勢において部分対象と対立される「器官なき身体」に見出します。

分裂病態勢が、摂取され投射され中毒性で排泄物的で口唇的で肛門的な悪しき部分対象に対立させるものは、部分的な善き対象そのものではなく、むしろ部分なき有機体、器官なき身体、口も肛門もなく、一切の摂取や投射を放棄し、その代価として完備になった器官なき身体である。(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』、小泉義之訳、河出文庫、2007年、28頁。)

小倉さんの(非常にオリジナルな)主張は、ここでの「一切の摂取や投射を放棄する」という部分を、対象関係論における「出生外傷」、さらには『マゾッホとサド』で論じられた「否認による運動の放棄と不動の形態の引き出し」(小倉 2013: 183)の議論として読むべきだということだと思われます。おそらく、「生まれたこと」の否定(je ne suis pas né)が単に現実の相対的な否定に留まるのに対し、(大過去で表現される)「生まれなかったこと」(je n’avais pas été né)は、現在とはまったく独立した純粋な過去の出来事、純粋な否定(精神分析的な意味での「否認」)を表現する。これが器官なき身体の完備さであり、分裂態勢に後続する抑うつ態勢における善き対象の超越性を保証することになります。

※『意味の論理学』におけるクラインの議論の意義、否認との結びつきなどについては、小倉拓也さんの論文「出生外傷から器官なき身体へードゥルーズ『意味の論理学』におけるメラニー・クライン受容の意義と限界ー」(『フランス哲学・思想研究』第18号所収、日仏哲学会、2013年)をご確認ください。

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残念ながら時間の関係上、中途半端に終わってしまいましたが、次回は山森さんをリーダーに『アンチ・オイディプス』第一章を読みたいと思います。

(小林卓也)

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